1975年6月に逮捕されたウェイン・クレイマーは、76年4月26日懲役4年の有罪判決を受け、ケンタッキー州の連邦拘置所で服役を開始した。そしてここで彼はなんと、チャ−リ−・パ−カ−・カルテットでトランペットを吹いていた偉大なビ・バップ・トランペッター、レッド・ロドニーと出会うのである。チャーリー・パーカーこそ、MC5のメンバー全員が尊敬してやまないフリー・ジャズの巨匠であり、ロドニーはマイルス・デイヴィスの後を受けてカルテットに加わったパーカーの重要なサイドマンだった。薬物中毒と病気で身を持ち崩し、ある詐欺行為で有罪となり、ロドニーもまた何回目かの刑期を務めていたのである。この出会いがウェインの人生を変えた。

2人は他の囚人ミュージシャンを集め Street Sounds というバンドを結成、刑務所内でギグを行う自由を与えられた。ウェインはロドニーのかたわらでギターを弾きながら、ジャズのスピリットを学んだ。彼は模範囚として過ごし刑期半ばにして仮釈放の許可を受け、1978年1月19日、晴れて自由の身となった。ウェイン自身の言葉を借りると「むこうみずなロックンロール・ギタリストとして入所し、ロック以上のものをプレイできるプロのミュージシャンになって出所した」のである。

さらにウェインにとって幸運だったのは、ミック・ファレンを中心にしたイギリスの音楽関係者の助力を得られたことだった。ファレンはウェインの刑期短縮の嘆願運動を行うなど、朋友のために力を尽くした。ちょうどパンク・ロックがブレイクし、MC5とストゥージズがそのルーツとしてクローズ・アップされた時期でもあった。スティッフ・レコードの創始者として有名なジェイク・リビエラもファレンの運動に賛同した1人で、ウェインがまだ服役中の77年10月、スティッフとチズウィックの共同レーベルから1万枚限定のチャリティー・シングル盤をリリースして資金を集めた。この売上により、出所したばかりのウェインは当面の生活費に困ることなく、社会復帰できたのである。

ファレンは釈放されて間もないウェインをロンドンに呼び、ディングウォ−ルズでのギグを行った。この時の模様は、後に "Cocaine Blues" 及び "Live At Dingwalls" としてCDリリースされている。また、エルビス・コステロやニック・ロウを引き連れてスティッフを離脱したリビエラが78年3月に設立したレーダー・レコードから、シングル盤がリリースされている。

そして1979年初頭、パンク・アイコン、ジョニ−・サンダースと結成したのが Gang War だった。MC5がかつてツアーでニューヨークを訪れていた時代、ウェインは当時ティーンエジャーだったサンダースのアイドルだった。サンダースは「ウェイン・クレイマーに会ってみたいといつも思っていた」という。刑務所を出たばかりのウェインは当時デトロイトに戻っていた。そこにギグでやって来たサンダースが、いくつかブッキングがあるが一緒にやらないかとウェインに声をかけ、やがてギャング・ウォーに発展した。メンバーは次の通り。

ウェイン・クレイマー(G/V)/ ジョニー・サンダース(G/V)
ロン・クック(B)-> ボビー・トーマス(B) / ジョン・モーガン(Dr)

しかし間もなく2人の間に亀裂が生じる。ウェインにはフラストレーションがたまる一方の不幸な時期だったらしく、いかなるインタビューにおいてもギャング・ウォ−のことをきかれると否定的なコメントをしている。刑務所から解放され、プロのミュージシャンとして生きていく決意を固めたウェインと、ドラッグから離れられないジョニ−の間には、音楽に取り組む姿勢に決定的なギャップがあったのである。ニナ・アントニア著のジョニー・サンダース・バイオグラフィー、「イン・コールド・ブラッド」に、ギャング・ウォー決裂の顛末が印象的に記されている。後年ある雑誌のインタビューで「ギャラが少ないって、ウェインはやめちまった」と語るジョニー。ニナはウェインにもインタビューした。エスカレートするジョニーのドラッグ使用に、ただでさえ苛立っているウェインにジョニーが電話してきて言ったそうだ。「あのな、ギャング・ウォーってバンド名だと客が集まらないから、ジョニー・サンダースでいけって。それでも出てくるなら100ドル出すぜ。」思わず笑ってしまった。ジョニー・サンダースって何て無邪気な魂の持ち主だろう。ウェインは答える。「100ドルのためにノコノコ出かけてく奴がいるか?100ドルでオレがするのはな、家でテレビを見ることさ!」

しかしジョニ−と組んだ経験はウェインに善かれ悪しかれインパクトを残した。90年代に入ってリリースしたソロ・アルバムでもギャング・ウォーの日々を歌っている。スーパー・デュオにもなれたはずの2人だっただけに短命に終わったのは残念。それでもニューヨークとデトロイト中心にかなりの数のギグを行ったらしい。80年1月にニューヨークのリッツで、レニー・ケイ・バンドとのジョイントを行った際にはイギー・ポップが飛び入りしている。数枚のアルバムを残し、その後間もなく消滅した。

ニューヨーク・アンダーグラウンドのアウトロー・キャット、デビッド・ピールとのコラボレーションが始まったのはこの時期である。

ピールが自ら設立したレーベル、オレンジ・レコーズから79年にリリースされたシングル盤に参加。80年にはピールのプロデュースでオレンジからリリースされた G.G. アリンのシングル盤に、もとMC5のドラマー、デニス・トンプソンと共に参加。 また1984年リリースされたピールのアルバム "1984" では全面的にギターで参加。90年リリースの上記ギャング・ウォーの "Live at the Channel Club" にもプロデューサーでピールが名を列ねている。そして1994年リリースの "War & Anarchy" では12トラック中3トラックでウェインがギターを弾いている。

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