シカゴ・リーダー紙の掲載許可を得て、1996年12月13日に同紙に掲載されたフューチャー・ナウ・フィルムズに関する記事の完全対訳を掲載する。
Translation of "Post No Bills" dated 12-13-96 by Peter Margasak. Used by permission of Chicago Reader.

「シカゴ・リーダー」紙 音楽セクション
ピーター・マーガサクによるコラム "Post No Bills" より
"Kick Out The History Lesson!"


1995年夏、映画製作スタッフであるデイビッド・トーマスとローレル・レグラーは、出張先のデトロイトでその後3年間の人生を変える出来事に遭遇した。巨大なビルの壁面いっぱいに描かれた、プロト・パンク・バンド、MC5の壁画を、塗装業者が塗りつぶしているのを目撃したのだ。「アメリカ・ロック・ヒストリーにおける重要な一部分が塗りつぶされ抹消されてしまいそうな危機を感じた」と、トーマスは語る。シカゴに戻った2人は、同僚のジェフ・エコノミーと話合い、何か行動を起こさなければならないと決意を固める。(3人は現在、フューチャー・ナウ・フィルムズの名前で活動している。)彼等はやがて、MC5と、それを生み出し消滅させた、60年代後期の争乱の世相を写し出すドキュメンタリー・フィルムの製作に乗り出す。

実際には、MC5はそれほど忘れ去られているわけではない。リリースされたアルバム3枚は全てCD化されているし、最近出版された、レッグス・マクニール/ギリアン・マッケイン共著の「プリーズ・キル・ミー」というパンク・ロックに関する本でも数ページを割いて取り上げられている。また、同バンドのギタリスト、ウェイン・クレイマーが活動を再開した時には、30年間にMC5がロックに与えた影響を賞讃する文章が、多くのロック・ジャーナリズムから寄せられた。MC5の音楽が比較的目立たない存在であるのは、キャプテン・ビーフハートからテレビジョンに至るまで、他の無数の変わり種ミュージシャンがマイナーであるのと何ら変わるところはない。

その音楽よりも明白なアピールを持ったのは、MC5の示した人生に立ち向かう姿勢だったのだ。何にもとらわれない、権力に屈しない精神、行動によって世界を変えようとするスピリット。反戦団体ホワイト・パンサー党の扇動的創立者、ジョン・シンクレアをマネージャーとしたMC5は、彼の指導のもとデトロイトのカウンター・カルチャーの代弁者となる。1968年、シカゴの民主党全国大会と時を同じくして行われたライフ・フェスティバルに出演したMC5は、エレクトラ・レコードのダニー・フィールズの目に留まるところとなり、翌年最初のアルバム、ライブ盤「キック・アウト・ザ・ジャムズ」をリリースする。

トーマスとレグラーは後に、例のMC5の壁画が描かれたビルが、かつてハドソンズの所有であったことを知る。「キック・アウト・ザ・ジャムス」のイントロでボーカルのロブ・タイナーが、興奮して叫ぶファンに向かって「マザー・ファッカー!」と呼び掛けているのを理由に、このアルバムの販売を拒否したデパートだ。これに抗議したバンドは、「ファック・ハドソンズ!」という広告をローカル紙に掲載し、同じメッセージを印刷したポスターをハドソンズの窓という窓に張り付けた。しかもエレクトラのロゴを使用して。これに対しレーベルは報復を行う。手切金を払って彼等をクビにしたのだ。そして問題の「マザー・ファッカー」を「ブラザーズ・エンド・シスターズ」に入れ替えた。

MC5は最終的にアトランティックと契約し、1970年に「バック・イン・ザ・USA」を、71年には「ハイ・タイム」をリリースするが、バンドとしての輝きはすでに失われていた。たった2本のマリファナ所持でシンクレアが9年半の刑期を務める間に、メンバー自信のドラッグ乱用、マネージメントの失敗やトレンドの変化などによって、バンドが掲げていた革命の理念と行動計画は急速にその意味を喪失した。同じくデトロイト出身のストゥージズは、MC5の後押しがあってエレクトラと契約を結べたわけだが、彼等はその後25年が経過する中でパンクのプロト・タイプとしての地位をしっかりと認知されている。片やMC5は、タイナーも、ギタリストのフレッド・ソニック・スミス
もこの世を去り、トーマスらがその名の消滅を危惧するような事態に陥っているわけだ。

「MC5のストーリーは、シェイクスピア的悲劇の物語として面白い。その繁栄と衰亡、そして最後に霧のように消えてしまうところがね。」エコノミーは言う。彼は数多くの音楽ビデオを監督し、ベルーカ・ソルトの「シーザー」も彼の作品である。(エコノミーとトーマスは当紙のビジュアルも担当している。)「でも彼等とて全くの無から唐突に出てきたわけじゃない。当時のカルチャーと密接に関わっていたんだ。このアメリカという国の現状の多くの部分が、デトロイトの労働者階級と同じ運命をたどっている。ほら、両方とも今じゃボロボロだ。MC5及びデトロイトに起こった事と、アメリカに起こった事には相関性があるのさ。」

「単なる偉大なロックンロールのストーリーじゃなく、アメリカ史を暗喩する物語だ」と、トーマスが熱意の余り声を枯らして付け加える。「オリバー・ストーンが、ドアーズのドキュメンタリーと映画「JFK」を別々に撮ったのはマズかったわけだ。あの2つは実際には同時に重なり合って起きていた1つの出来事なんだ。「スパイナル・タップ」と「X-ファイルズ」だって、実は1つの映画であるべきなのさ。」

当初、フューチャー・ナウの撮影陣は関係者の大変な懐疑と不信に遭遇する。シンクレアには「イカレている」と言われた。元ベース、マイケル・デイビスは電話口で絶句し、そして言った「そっとしといてくれ。」しかし数カ月が経過すると、スタッフの決意そしておそらくはその盲目的とも言える熱意が、取材対象となった人々からの信頼を得ることとなる。長時間にわたるインタビューが、シンクレア、クレイマー、ドラマーのデニス・トンプソンに対して行われ、その他キーとなる関係者ほぼ全員の協力を得た。(ソニック・スミスの2人目の妻、パティ・スミス未亡人からの返事も待たれている。)かつてMC5のコンサート・ポスターの傑出したデザインを担当していたゲリー・グリムショウは、この映画のポスターデザインを請け負ってくれた。ジョン・シンクレアの元夫人レニ・シンクレアからは、非常に珍しいライブの実録フィルムが提供され、それは筆者も数分間目にする機会があったが、確かに、動物的で衝撃的というMC5の評判にふさわしい内容だった。

目下最大の障壁はむろん「資金」である。レグラーはマネージメント関連の大部分を担当しているが、彼女が言うには フューチャー・ナウは1996年12月現在1万5千ドルを費やし、この先28万5千ドルの投資を必要としているそうだ。「この作品は絶対テレビ用ではないし、ホームビデオとしてのリリースも考えていません。」レグラーは言う。「35ミリフィルムで、劇場用の長さにして公開するつもりです。」彼女とスタッフは来年夏までに全ての撮影を終え、98年初頭リリースを目指している。

「自分達が見たい映画だからこそ撮ってるんだ。」トーマスは説明する。「MC5の映画が見たいんだ。僕ら以外の誰がそれを作る?」

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