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1999年10月、ケン・シマモトが I-94 Bar にアップしたウェイン・クレイマーのインタビューである。ウェインのインタビューは数も多く語り尽くされている感もあったが、ここでは音楽に対する彼の姿勢や、あまり注目されることのなかったジョン・シンクレアとのコラボレーションの様子などが語られ、なかなか興味深い内容となっている。ウェイン・クレイマーの明晰な思考がよく伝わってくるインタビューだと思う。「MC5最悪の思い出」を語るウェインの語り口はユーモラスで、最後は本人も笑い出してしまうところがおかしい。
ケン・シマモト(以下KS): あなたがエピタフからリリースしたアルバムはどれも大好きです。だからプロモーションに関してあの4枚が受けた不当な扱いには失望してますよ。

ウェイン・クレイマー(以下WK): 今のロック・ビジネスは10年前のロック・ビジネスとは違う、20年前とはさらに違うってことさ。今じゃ自分のオーディエンスに到達するためには、ありとあらゆる手段を取らなくちゃいけない。いわゆる「余剰収入」ってヤツ(笑)-- おかしな言い方だよな、まるでいらないカネがあるみたいだ--- とにかく、その余剰収入を狙ってしのぎを削ってる、テレビ、インターネット、スポーツ、テレビゲーム、超大作映画とか、いろんなモノを相手にエア・タイムを確保するために闘わなけりゃならないのさ。

KS: 話を2、3年前に戻したいんですが、1枚目のアルバム [「ハード・スタッフ」] を制作した時、何か特別なコンセプトを持っていましたか?

WK: コンセプトの一部としてあった、今もある、のは、この時代の人々、今日のリスナーに俺の音楽を再び聴いてもらいたい、ってことだ。それが考え方としてあった . . . 当時俺にはバンドさえなかったから、そういう風に望むのは自然の成り行きだった。で、ブレット・ガーウィッツのすごいところなんだが、彼は「このアルバムの制作に参加したがるミュージシャンは掃いて捨てるほどいる」って言ったんだ。しかも彼らは俺がいっしょに作業をしたいタイプのプレイヤーだった、つまりスレた L.A. のセッション・ミュージシャンじゃなく、もっと「ストリート・レベル」のプレイヤーたちだ。やけに手慣れたスカンク・バクスターみたいなのと仕事するのだけはゴメンだよ。

自分の作品を考える時、常に核として何があるかと言うと、つまり、意義を持つ歌を作るよう努力したいってことなんだ。そうすることによって自分が人間というレベルで、コミュニティーとか住んでいる地域とか、町や州や自分の国、そして世界とつながっていて、そういうものに対して影響を及ぼしていると実感できるんだ。それはとりもなおさず「あんたは独りぼっちじゃないよ」って人々に語りかけることと同じなんだ。俺のライフ・ワークさ。今現在俺が書くのは俺が生きてきた人生についての歌だ。これが10代の終わりや20代だったら自分が誰なのかとか、そういう曲を作るんだろう、まだ自分というものが出来上がってなくて自分本来のものになりつつあるところだから、もっと後になって必要になる知識を吸収してるところだから。人生の半ばにさしかかる頃、40代までには誰でも一通り自分が出来上がって白紙じゃなくなり、この世界において自分が何なのか、少なくともその一端くらいは理解する。で、今俺は50代で、ウェイン・クレイマーであることに対し、たぶん20歳の頃よりは居心地悪さを感じなくなってるし、自分の役割も明確に理解していて、この世界での自分の居場所は心得てるというわけさ。

KS: 現在の自分のオーディエンスをどう思い描いてますか?誰に向かってプレイしていると考えていますか?

WK: そうだな、年齢層は少し高くて25歳から45 . . . ある程度社会の中核で生活している、音楽に対し真面目な興味と愛情を持っている人たち、成熟した人間だ。エピタフの典型的リスナーじゃあない。エピタフってのは都市郊外に住む9歳から15歳の白人の少年にパンク・ロックを売ってる会社さ、ああいう少年たちは俺のやってることをある程度評価はしてるだろうが、俺の音楽は彼らのためのものとは思えないな。俺のオーディエンスはもっと音楽そのものに耳を傾ける人々だと思う。まだロックし続けたい大人たち、音楽に物事の意義や本質を見い出したいと思っている人間たちだ。30歳過ぎて相変わらずスピード違反でクルマを停められるようなタイプじゃない。子供がいる人もかなりいるだろう。安定した職業や生活を持ちながら、心の底ではまだロックしたい大人たちだ。かといって愚かなバカ騒ぎをするタイプじゃない。BDRみたいなロック、メタルとか、確かにメタリカのファンは多いし彼らは違った考えだと思うが、でもあのバンドは悪魔のことを歌ってるんだ . . . 俺のオーディエンスの知性がその程度のものだとは思いたくないね。彼らの品性を落とすようなパフォーマンスはしたくない。アメリカをダメにするようなことには加担したくない。「考えるという行為は楽しい」という概念を推進したいんだ。(笑)つまり、頭脳というのは俺が自分の身体の中でも特に気に入ってる部分だってことさ。

KS: ラジオであなたの音楽が流れるのを聴けば、共鳴する若者は大勢いると思うんですけど。

WK: ラジオってのは大変なんだよ、昨今。カネがあればラジオで流してもらえるけどな。

KS: 現在のラジオ放送って70年代より反動的ですよね。

WK: ラジオ局がものの見事にやってくれたのは音楽の趣味をゲットー化することだよ。リスナーを個別に分類してな。「えーとこれはアダルト・ロック、これはアダルト・オルタナティブ・ロックだ、こっちはハード・ロックで、えーと、これはラップ、でこれはアーバン・ライトかな、そしてこれは . . .」な?で結果どうなったかというと、全ての人間を個別に分断し区分し孤立させちまったのさ。アートとか俺たちのこのカルチャーとか、そういう包括的大きな世界を共に分かち合うという意識を持つ代わりに、すべてが個別に小さくまとまっちまったんだ。よくない傾向だが、圧力鍋みたいなものだと思うね。ずっとこんな調子で続いていって、ある時点で爆発する、そして何か、誰か、革新的なものが飛び出して来る。あるいは、あまり長くこれが続くとみんなが、少なくとも誰かが「ありふれたものなんかいらない」とやがて言い出すかもしれない。

KS: ありふれたものが売れるんですよ、そこが問題なんです。

WK: かもな。

KS: 2作目の「デンジェラス・マッドネス」ですけど、1枚目より一般受けするように意識的な試みがあったんでしょうか?「ワイルド・アメリカ」なんかは、ほんとにラジオでヒットしてもおかしくないような歌でした。「バック・トゥ・デトロイト」はとても物語性のある作品でしたし。

WK: いや、意識的にラジオ受けや一般受けを狙ってアルバムを作ったことは一度もないよ。ただしそのことと、親しみやすい、リスナーにわかりやすい歌を作るってのは別のことだ。俺の姿勢としては、とにかく自分として可能な限りいい歌を作り、できる限りいいアルバムを作る。その結果自分の音楽がラジオで流されるようになったとしたら、それはとりもなおさず自分がやろうとしていることに忠実であった結果に他ならない。グー・グー・ドールズやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンみたいなサウンドのアルバムを俺が作ろうとしたら大笑いだろ?彼らの音楽はすごく好きだけど。「マッチボックス20」みたいなアルバムを作ろうと、試みることさえ . . . 俺にはとうてい無理だね。だが、アプローチしやすい、意味のある、ロックする、パワーを持つ、グルーヴが感じられる、すばらしいメロディーを持つ、そういうアルバムを作ること、それはできるんだ。「ワイルド・アメリカ」で俺がやろうとしてたのは、モータウン風の歌を作るってことなんだぜ実際。

KS: もう一度ジェイムス・ジャマーソン [ハード・スタッフ収録の "Pillar Of Fire"に参加したモータウン出身のベーシスト] を使えばよかったですね。

WK: 「ワイルド・アメリカ」っていう言葉は、あの歌を共作したミック・ファレンが「アメリカ」って単語が入った歌詞を書いてみたいといつも思っていた、って言ったからなんだ。ウケを狙ったわけじゃなく、それ以外に理由はないよ。

KS: ミックとどういう風に知り合ったのか話してくれますか?

WK: ミッキーはイギリスで、ロンドンでバンドを持ってた、MC5の英国版みたいなヤツだ . . . 最初はザ・ソーシャル・デヴィアンツってバンド名で後になってただのザ・デヴィアンツにした。で奴らはいわばMC5の政治的スタンスを採用したんだ、あいつらホワイト・パンサー党ロンドン支部ってのを結成したんだぜ。で、1970年頃ミッキーはファン・シティーって、今で言うロラパルーザ・ロック・フェスティバルの先駈けみたいなイベントの開催に携わっていた。集まるのはいわばメインストリームからハズれたバンドで、いろんなテントが出て、ウィリアム・バロウズまで参加してた。で、はるばるデトロイトからMC5を呼んだわけだ。そうやって出会ったんだよ。俺とミッキーは何というか共通したスピリットを持ってた、で、すごくいい友達になったのさ。趣味が同じだったからな、ドラッグ、セックス、政治、酒 . . .

KS: ファン・シティーでのMC5のステージのブートレグが出てるのを見ましたけど、イギリスに行ったのはあれが最初だったんですか?

WK: そうだ。あのブートレグはひどい。俺は断固あのブートに抗議する。とてつもなく悪質だ。事実、あれが出るのを阻止するために俺はかなりの労力を費やしたんだぜ。全くのパクリだ。写真を適当にコピーしたのやTシャツをくっつけて、奴らはあれを40〜50ドルで販売してるんだ。MC5ファンのことを思うと . . . 全くもって悪質なやり口だ。

で、ミッキーの話に戻るが、ヤツとの友情はその後もアメリカとイギリスという距離を隔ててずっと続いたんだ。ヨーロッパへはツアーで何度も行ったし、彼もアメリカに来てた。70年代末にムショから開放されてしばらくして俺はニューヨークに引っ越したんだが、ヤツの住まいと数ブロックしか離れていない場所だと後になってわかった。それで本格的に曲をいっしょに書く作業を始めたんだ。共同作業自体はMC5が解散すると同時に始めてた。ミッキーが歌詞のアイデアをイギリスから俺に送ってきて、俺がそれに曲とメロディーをつけて送り返し、イギリスの誰かがウェイン・クレイマーのレコードをリリースしてくれないか様子をうかがってたのさ。それがずっと続いて、やがてニューヨークで近所に住むようになった時、2人でアヴァン・ギャルドのミュージカルを書いたんだ。「ザ・ラスト・ワーズ・オブ・ダッチ・シュルツ」(「ダッチ・シュルツの臨終の言葉」)って題名のリズム・エンド・ブルースのミュージカルだ。数年間上演されてほんとに楽しかったね。で、その後もずっといっしょに書いてる . . . 2人が普段話し合ってることや不快に思ってること、あるいは妙に興味を抱いていることなんかからアイデアが浮かぶ。俺が歌詞を書き曲をつけることもある、で1年もしてからヤツがその歌詞を変えてその歌を新しいレベルに引き上げるってこともある。アイデアのリサイクルみたいなことはしょっちゅうだね。何かいいものを作るためには何でもありって感じだ。

KS: 1978年頃あなたがイギリスでリリースしたシングル、「ランブリング・ローズ」に彼が関わっていたというのは本当ですか?

WK: ああ。まだ服役してた時にヤツから手紙が来て、俺が投獄された件でイギリスのロック関係者はものすごく怒ってる、で、スティッフ・レコードとチズウィック・レコードっていう2つのレーベルを合体させて、俺が書き送った曲から2曲選んで俺のためのチャリティー・シングルをリリースするから、出所したらその売上げ金を全部受け取れっていう。真の友情に基づいた本当にありがたい行為だった、てのも囚人の大多数が出所した時持ってる財産といったら、ブチ込まれた時所有してたものだけなんだ、要するに何もないってことさ、だからほとんどの者がまたムショに逆戻りするんだよ。それが俺の場合、解放された時点で2千ドルくらいのカネがあったわけだ。それでシャバの生活に慣れて社会復帰するまで食いつなぐことができたんだよ。そのことが実に、本当に、その後の俺の人生を違ったものにしたんだ . . . さもなきゃまたヤクを扱ったり、盗品のテレビや銃なんかを売ったりしてたかもしれない、だからあのカネはものすごく . . . 2千ドルだぜ?それで人1人が重圧を跳ね返し更正できるんだからな。

KS: 「デス・タング」はどうだったんでしょう?

WK: あれは例のオフ・ブロードウェイで上演してた「ダッチ・シュルツの臨終の言葉」から生まれた作品だった。ある時、メタリックなアルバムを作ろうってアイデアが湧いて、トロントのインディー・レーベルからシングルを1枚リリースした。その仕上がりがよかったのと、そのインディーのオーナーが少しまとまった資金を持ってた、しかもちょうどその頃俺たち「ドラム・マシーン」てヤツを初めて知ったんだ。「オォー!こいつはすごい。完璧なるリズムを刻み、口答えはしないしトラブルも起こさない。ドラム・セットを必死で動かす必要もないし、こっちが望むようにプレイする . . . 人間のドラマーよりよっぽどいいぜ、面倒なドラマーなんかクソくらえだ!」って感動したんだよ。てわけでレコーディングを始め、新曲をいくつか書き、ジョン・コリンズがほとんどの歌を歌った。(奴は「ダッチ・シュルツの臨終の言葉」に参加してたシンガーの1人で、「テロリスト」っていう、70年代にロウワー・イーストサイドですごく人気があったバンドのリーダーだったんだ。)だが、わかってると思うが、「デス・タング」は . . . ドラム・マシーンがよくないんだな。今聴き返してみて、ドラムの音がいささか無機質で単調過ぎるよな。当時はプログラミングの知識なんか全く持ち合わせていなかったから、とにかく1つのビートを創作してそれをオンにすることしか知らなかったんだ。レコーディングの作業がほとんど終わる頃になって初めて、ああいう合成されたドラム・サウンドに多少なりともソウルとフィーリングを込めることができるとわかったのさ。

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