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ケン・シマモトが行った、ジョン・シンクレアの元夫人、レニ・シンクレアのインタビューである。警察のハラスメントやコミューンでの生活など、レニの証言は生々しい。また、ワイルドなイメージが先行するMC5だが、ここに述べられているような音楽に真面目に取り組む真摯な姿勢は、現代の全てのロック・バンドが見習うべきだろう。
Interview with Leni Sinclair conducted by Ken Shimamoto, originally run on I-94 Bar. Reprinted in Japanese by permission. Thank you so much, Ken!

ケン・シマモト(以下KS):ジョン・シンクレアやアーティスト・ワークショップとはどういう経緯で関わるようになったのですか?

レニ・シンクレア(以下LS):ジョンとは私たちがウェイン州立大学の学生だった時に出会ったの。一緒に暮らし始め、やがて「デトロイト・アーティスト・ワークショップ」という名前で活動していたグループの中心になった。

KS: だいたい何年頃のことですか?

LS: 1965年頃ね。実際には64年の秋に始まったんだわ、正確にはアーティスト・ワークショップの創立日は1964年の11月4日だった。

KS: 当時他にどういう人たちが参加していたんですか?

LS: えーと、ジョンとチャールズ・ムーア。チャールズはもう1人の中心メンバーで、トランペッターだった。彼をジョンに紹介したのは私で、その後あの2人はかけがえのないパートナーになったの。「デトロイト・コンテンポラリー・フォー」ってバンドがあって、たくさんのミュージシャンが参加していた。チャールズがトランペットでね、ダニー・スペンサーやジョン・ダナなんかがいたわ。他は知らない人たちだった。

KS: チャールズ・ムーアは今でも活動していますよね。2、3年前ジョンがウェイン・クレイマーと録音したアルバム、「フル・サークル」でも演奏してます。

LS: そうよ、ハリウッドか、ロサンジェルスのどこかに住んでいるわ。民族音楽学の博士号を持っていて教鞭を取っているのよ。ものすごく長い間研究を続けているわ。

その他には・・・詩人のジョージ・タイシュがいた。今はデトロイト・メトロ・タイムズ紙でアート・エディターをしてる。それから映画制作者で詩人で永遠のルネサンス・マン、ロビン・アイシェルがいた。彼は今は映画プロデューサーよ(近頃私は連絡を取っていないけど、ジョンは最近話したらしいわ)。それにマーティナ・アルガイアー。政治活動家で、キューバへの渡航がまだ完全に禁止されていた1962年頃に最初にあの国を訪れた学生たちの1人だった・・・彼女はあの派の学生で、後年カリフォルニアのどこかの山奥でアレン・ギンズバーグやゲリー・スナイダーと生活してた。今はどうしてるんだか・・・当時の仲間たちの消息が本当に知りたいわ。そう、だから、とにかく、1964年か65年頃のことよ。アーティスト・ワークショップの最盛期ね。

1966年、ジョンはデトロイト刑務所で6ヶ月服役しなければならなくなり、出所した時に私たち「人民祭」って名付けた復帰記念パーティーを開いたの。私が企画したわ。エキジビションや舞踊、詩人、バンドのライブなんかをアレンジした。そしてその夜、最後に登場したのがあのバンド [ 注:MC5のこと ] だったのよ。彼らが誰なんだか、どこからやって来たのか、そのイベントに参加していいと誰に言われて来たのか、見当もつかなかった。彼らが演奏し始めると ー その夜の最終演目だった、もう夜中よ ー 近所の住民の1人がショット・ガンを構えて現れて、「この音楽を止めなければ撃ち殺す」って言ったの。近所には本当に粗暴な人たちが住んでいて、彼らは始めっから私たちのことが嫌いだった。だからこのロック・バンドが演奏し始めるともう許せなかったのね。つまり、ジョンは刑務所から出て来たばかりだったし、近隣の住民はすごく神経質になっていた。彼らはジョンをまたすぐ刑務所に送り返したいくらいだったのよ。だから私は電源プラグを引き抜いた。そうでもしなければ止められなかったの。だから私はプラグを抜き、彼らは演奏をストップした。だからそのことで、バンドのメンバーは長い間私に腹を立てていたと思うわ。

KS: 警察からは相当な嫌がらせを受けたんですか?

LS: もちろん、すごかったわ。四六時中、ね。不倫疑惑でビル・クリントンを追いつめた調査官ケン・スターみたいな、ストリングフェローって巡査がデトロイトにいて[ 注:ジョン・シンクレアが「ワーナー・ストリングフェローに捧げる詩」を書いた警官 ] 、ジョンを目の敵にしてた。ストリングフェローはジョン・シンクレアこそ市民の敵ナンバー・ワンだと考えたの。デトロイト近郊の何百万人というティーンエジャーをヒッピーにしてしまう人間だとね。全部ジョンの責任だと考えたのよ。彼はジョンに対して個人的に深い恨みを抱いていた。だから何度も何度もジョンを逮捕した。オトリ捜査官を私たちの所に潜入させたことも2度あったわ。とにかく、彼らは本当に心底ジョンを憎んでいた。でも見つけ出せたのはたった2本のマリファナ・タバコだけだった。ストリングフェローにはヒッピーの娘がいて、その子はジョンを慕っていた。家族との夕食の席でストリングフェローがどんなことを言うか、その娘はよく私たちに語ったものよ。ジョンのことをあいつはサンダルを履いてるから足が汚ないとか、ヒゲを生やしてるから不潔だとか言っていたのよ。

ジョンは3回逮捕された。1回目は警察の手入れで、2回目と3回目は全く違う変装をした同じオトリ捜査官にはめられたの。全く驚きだったわ、そいつは大した役者だったのよ。当時私たちはアン・アーバーのヒル・ストリートにある家に住んでたわけだけど、その男は私たちと完璧に共同生活を営んでいたのよ。今日に至るまで、あいつの正体を誰も知らないの。

KS: 1967年頃ですよね。どうしてヒル・ストリートに引っ越したんですか?

LS: 1968年よ。どうしてそういうことになったかって言うと・・・私たちは週末に働いて収入を得ていた。MC5のライブは週末に行われたし、ライト・ショウのスタッフも仕事は週末だった。私たちはグランディ・ボールルームの中に小さなショップを持っていて、それも週末に営業していた。マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたあの週末、デトロイト市当局は暴動の発生を防ぐために市全域に夜間外出禁止令を出したの。事件や暴動の気配なんか全くなかったのに、禁止令を出した。それで私たち誰も外に出ることができなくなった。2回目の週末を迎える頃にはお金が底をついたわ。生活費が全くなくなってしまった。週末に働けなかったからよ。警察には四六時中嫌がらせをされた。道を歩いている長髪の男は若い黒人と同じように職務質問されたわ。長髪は黒人青年と同じカテゴリーだったの。警察は毎晩のようにやって来ては私たちの家の周囲をパトカーでぐるぐる回り、窓の中に向けてライトを照らした。私たちに不愉快な思いをさせるための単なる嫌がらせよ。

そうこうするうちに禁止令は解けたから私たちはまだがんばるつもりでグランディ・ボールルームに出かけた。ライト・ショウやライブをやるから、つまりコミューンの全員が週末にはグランディ・ボールルームに出かけるのよ、で、家が留守になっている間に、放火されたの。誰かが火炎瓶を屋根に投げたのよ。連絡を受けて家に戻ると、家中めちゃくちゃでとても住める状態じゃなかった。生活していた部屋はどこも真っ黒な水が数フィートも溜まっていて、居間もキッチンも、全て水浸しだった。電気もガスも使えなくなっていた。コミューンには赤ん坊も1人いた。だからその夜のうちにどこかに移動しなければならなかったの。それでもうそこに見切りをつけて、アン・アーバーに移ることにしたのよ。亡命ね。

KS: ヒル・ストリートの新居をどう思いました?ミシガン大学の学生クラブの寮だったんじゃないんですか?

LS: いいえ、学生クラブはもうそこでは運営していなかった。確かに隣の棟に歯科医の友好クラブがあったけれどね。まず私たちがヒル・ストリート1510番地に引っ越して来て、それからジ・アップのメンバーとデイブ・シンクレアと彼のコミューンが隣りの1520番地に移って来たの。この2軒の家は20世紀の始め頃アン・アーバーの市長が住んでいた場所で、官邸としても使っていたんだと思うわ。とにかく広かった。私たちの棟には16部屋あったけど、もう1棟に何部屋あったかは知らない。私たちには小さな部屋がたくさん必要だった。住人全員に1部屋づつ割り当てられていたから。でもアン・アーバー全体がひとつの大きな学生クラブ街みたいなものだったのよ。単なる1本のストリートでの生活ではなかった。

KS: ヒル・ストリートの家での生活はどのようなものでしたか?警察との緊張関係は続いていた?

LS: いいえ、ジョンは休戦協定を結んだの。引っ越してすぐに、何ていったかしら彼の名前・・・その警官の名前は忘れてしまったけど、いい人だった・・・スタウドマイヤー警部補だわ、彼が家にやって来たの。とにかく、アン・アーバーにはこの警官がいて、風俗取締警官みたいな感じだった。それ以前、大学キャンパスで「フレイミング・クリーチャーズ」って映画を上映していた時に彼とそのチームが現れて映写機を止めてしまったのを見たことがあったわ。アン・アーバーからこのスタウドマイヤーって警官が大学にやって来て、映写機を止め、フィルムを没収したの。言論の自由を支持したあの「憲法第1修正」判決はああいうことから出てきたのよ。

とにかく、私たちがアン・アーバーに移るとすぐにスタウドマイヤー警部補がやって来て、私たちみんなで彼をぐるりと取り囲み、彼が何を言い出すのか戦々恐々として待ち構えた。ジョンはこう言ったの。「我々は勤労するコミューンだ。毎日働き、税金を納め、法を遵守する市民だ。だから、もしあんたたちが我々に何も手出ししないなら、こっちもあんたたちを悩ますようなことはしない」とね。まさしくそういう風に、礼儀正しく、でも要点を突いていた。そういうことなの。彼らは私たちを放っておいてくれた。MC5が届出なしに公園でライブを行った時、彼らはバンドを逮捕しなければならなかったけど、警部補はジョンにこう言ったわ。「いいか、無許可でこれは禁止なんだ。だがきょうのところはいい。とにかく明日あいつらを署に連れて行って許可証をもらってこい。」それでジョンは翌朝バンド・メンバー全員を連れて警察に行き、騒音条例許可証を取った。凶暴な取締班で襲撃し、若者を蹴散らして乱闘に陥ることなく解決したの。あの人は警官にしては多少の知性を持ってた(笑)。友情じゃないけど、似たようなもの、互いを尊重する気持ちがあった。それでうまくいった。スパイされていたとは夢にも思わなかったけどね(笑)。いろんな装置を仕掛けられていたのよ。電話は盗聴されてたし、私たちの生活は全てFBIに知られていたし、監視されていた。

KS: あなたが撮影したMC5の写真を見ました。あなたのウェブサイトで。

LS: あそこには1ページしか載っていないでしょ。あと1ページ分用意できるし、さらに2ページ追加することだってできるんだけど、とにかく暇がないの。膨大な量の写真を持ってるのよ。ファイルに目を通すたびに現像した覚えがないものを見つけるの。ほとんどの写真のプルーフ・シートがないから、自分が何を持ってるのか見当もつかないわ。とにかく何千枚という写真があるのよ。残念なのは、カラー写真のほぼ全てが失われてしまったこと。ライト・ショウの最中に火が出て、私のカラー写真はほとんど全部その火事で燃えてしまったの。焼き増しはなかったから、今あるのはわずかに燃え残った分だけなの。

KS: モノクロの写真だけでも十分すばらしいですよ。とにかくビジュアル的にもインパクトがあるバンドだったんですよね。自分たちをどう表現し、見せるか、いろいろ考えたりプランを立てたりしてたんですか?

LS: もちろんよ!私たちがMC5と住んでた2年間というもの、バンドの生活は全面的に、次のライブをいかに行うかというプランニングに捧げられていた。ギグが近づくと、つまり毎週末ってことだけど、彼らはもっぱらそのことを話し合い、セット・リストを決め、新しい曲を書き、どんな服を着るか決め、生地を買いに出かけ、それでガールフレンドにハデな衣装を縫わせたの。毎回毎回、新しいショウの準備にものすごい時間を費やしていた。だからみんなライブに足を運んでくれたの。来るたびごとに何かエキサイティングで新しいことが起こるから。毎回ジョン・コルトレーンがプレイしているようなものね、つまり彼って演奏のたびごとに何かを見つけ出そうとしてる。捜して、模索して、探求し尽くすの。ブレイクの時もバックステージで一生懸命練習するコルトレーンの姿をよく目にしたものよ。ファイブもそういう感じだった。人々のために何か新しいことをしようって、ものすごい努力を払っていたのよ。ハイになって、さあ次は何をしでかしてやろうか、ってね(笑)。

MC5には信じられないようなファンの子たちがついててね、後になって「MC5ソーシャル・アスレチック・クラブ」なんてお固い名前の組織になったけど、もともとは「グランディ・ストンパーズ」って名乗ってた女の子たちのグループでね、MC5の親衛隊だった。彼女たちは真冬にヒッチハイクしてやって来るのよ。MC5がライブをやる所どこでも、真っ先にハイになって踊り出し、周りのオーディエンスを巻き込み、バンドのために料理し、ドラッグを調達し、身の回りの世話をし、その他全ての必要を満たしてあげていた(笑)・・・とにかく驚異的な女の子たちだったわ。あの子たちもMC5の成功に大きく貢献したのよ。

でも、そう、とうにかくファイブはライブに関してはとてつもなく真剣だった。一大スペクタクルでなければいけない、って考えていたのよ。

KS: トランス・ラブの家で行われていたことや、男女の役割に違いについてはいろいろと取りざたされています。今の基準からすると、ずいぶん古風で保守的なものだったと・・・それについて何かコメントはありますか?

LS: 今振り返ればそうかもしれない。フェミニズム以前の話だしね。でも当時ああいう状況で住んでいて私たち女性にしてみれば、抑圧されてるとか低く見られているとか、全然感じなかったわ。つまり女たちは楽器を手に取ってプレイしようとしたりとか、バンドに入ろうとしたりはしなかったけれど、あの場の情況で私たちは自分たちが、同じ努力目標の中で平等な立場にいると考えていたの。私たち女性だって革命家だったのよ。男が上で女が下なんていう上下関係はなかった。どんな犠牲を払ってでも、自分たちが関わっているこの同じ努力の中で同等な貢献をしていると自覚していた。「女たちは床に這いつくばって雑巾がけをしていた」なんて書いたものを読んだことがあるけど、全くのでまかせよ。みんなが参加し、めいめいの仕事と職務を果たしていた。とても強い結びつきを持った組織だったの。女たちはみんなで育児をし、台所仕事を分担し、直接のバンド活動以外は全てのことを協力して行っていた。

実際私は、確かアン・アーバー・サンだったと思うけど、地元の新聞に記事を書いたことがあるの。いわゆる「コック・ロック」、つまりギターを持ったペニス・ロック・バンドに対する批判が持ち上がり始めた頃よ。私の要点は、コック・ロックでもいいじゃないか、と。でも女性だって楽器を持ち、プレイすることを学び、そしてバンドを始めるべきだ、ってね。

KS: 90年代に入って現実になりましたよね。

LS: 「ペニス・ロックに対抗してプッシー・ロックをやろう」とは言わなかったわよ(笑)。

KS: 1969年にジョンが投獄された時、彼が刑務所にいる間はMC5があなたの生活を助けるという契約をバンドは守らなかったという説がありますが?

LS: そんな契約があったかどうかさえ私にはわからないわ。ジョンが服役するなんて、誰一人予想していなかったんだから。それに収監される前にジョンが今後のことについて誰かと何らかの協議をしたとは考えられない。しばらく拘留された後、2、3日か数週間で出て来るものとみんなが思っていたんだから。結局そうはならなかったわけだけど。そしてMC5は・・・まず彼らは J.C. クロフォードとの関係を絶ったの。大きな間違いだったと思う。だって彼はほとんど6人目のMC5といっていい人だったんだから。かけがえのない存在だったのよ。だからバンドが彼をクビにした時、私たちは嫌な感じがしたの。そのうちに彼らはあの男を連れて来たのよ。ジョン・ランドゥーをマネージャーとしてね。もちろんそのことで私たちはものすごく反感を感じた。そしてコミューンの財政は・・・本当のところはよくわからない。何の契約もなかったんだから。ジョンはMC5と契約書とか文書とか、何も取り交わしていなかった。紳士協定に基づくシステムだったのよ。

とにかく私がはっきり覚えているのは、ジョンが刑務所に入った後、私たち17人ほどの人間がとり残されたってこと。その誰もが最後の2年間は、寝る場所と食べ物をもらう以外は全く無償でMC5のためだけに働き、彼らを有名にしてあげたのよ。そして突然ジョンはいなくなり、私たちは収入の道を完全に断たれてしまった。料金を滞納して電話を止められたわ。ジョンが投獄されて助けが必要だと人々に呼びかけなければならない重大な時にね。お金は全くなく、電話もなく、食料を求めて物乞いしたわ。例によってジョンの両親が援助の手を差し伸べてくれたけど、一時期、本当に絶望的だったの。MC5はたとえジョンが刑務所にいても彼をマネージャーとして雇い続けるべきだって感情もあった。バンドのメンバーに誤った情報を吹き込んだ人たちがいたのよ。ジョンは足手まといになるって。つまり危険人物過ぎてバンドの障害になるって。ジョンはあまりにも政治的な存在だって。だからメンバーはノーと言ったの。ジョン・シンクレアと革命のイメージを捨てた方が無難だって。それが間違いだった。その点については誰もが同意見だと思うわ。なぜなら、その行為によってMC5はそれまで彼らの味方をしてくれてた全ての人々や環境を失ってしまったからよ。そして混迷していったの。

KS: その後すぐあなたはどうしましたか?

LS: 私は2人目の子供のセリアを身ごもっていたし、生きて行くすべを見つけなければならなかった。そしてジョン・シンクレア解放運動を始めたの。ありとあらゆる手段を利用してね。その中心人物がジョンの弟のデイブ・シンクレアで、彼がそのプロジェクトの財務全てを仕切ってくれた。そしてジ・アップが、この革命集団ホワイト・パンサー党(笑)のハウス・バンドになったの。MC5には及ばなかったけれど、いいバンドだったから彼らと一緒に活動を続けたわ。だからその後2年半はファイブとは無縁の生活だったのよ。ジョンを解放することにエネルギーを集中し、各方面の支持を集めていった。

ベントレー資料館のことは知っている?ジョンと離婚した時、私はアメリカに移民して来た時からずっと捨てずに取っておいた部屋いっぱいの資料 ー 私たちが出版したフライヤーや雑誌や書籍なんかね ー それを全部持っていた。私たちは4種類の雑誌を並行して発刊していた時期もあったし、他にもほとんどがガリ版刷りで出版した約20冊の詩集もあった。私って物持ちがいいから何でも取っておく癖があってね、紙切れやメモの端書きやなんか全部をね。だから離婚した時そういう物のコレクションを全部ミシガン歴史図書館に寄贈したの。州知事やミシガン州最高裁判所判事関係の文書なんかを保管してある施設よ。そこにジョン及びレニ・シンクレア文書ってセクションがあるわけ・・・膨大な量の資料よ。今じゃ60年代の研究をしてる人たちが訪れる場所になってるわ。アン・アーバーのミシガン大学構内にあるのよ。私自身はそこに入って行くことができないの。つまり、思い出に胸が締め付けられるようでね、感情をコントロールできないのよ。書類の中に埋もれた私の人生の一部ってわけ。自分では保管しきれなかったから手放さなければならなかったけど、場所さえあればって思うわ。あそこにはグランディ・ボールルームに貼られた全てのポスターと、全てのフライヤーと、全ての絵ハガキと、全てのパンフレットと、私が保管しておいた全ての物があるのよ。まだたくさん持ってるの。相変わらず溜め込んでいるから(笑)。いろんな古い物が詰まった箱がいくつもあるわ。どうしていいかわからないんだけど、歴史だから捨てる気になれないの。私が死んだ後はたぶん、子供たちに残して保管してもらうことになるでしょうね。

KS: あなたの人生の共鳴であり、歴史的価値もある品物ですよね。ウェブサイトの方はどういう感じですか?

LS: たくさんの人たちが「この写真使っていいですか?」って訊いてくるわ。私のサイトをリンクてくれさえすれば、誰にでも「どうぞ」って言ってるの。それでさらに他の人が私のサイトを知るのね。私自身は他のサイトとリンクを張っていないけど、他のサイトが私のサイトにリンクをつけているから。私は営業的なことは全然やってないのよ・・・私はもっぱらフォトグラファーであって有能なビジネス・ウーマンじゃないから。エージェントが必要ね(笑)。

KS: あなたの電話番号はデニス・トンプソンから教えてもらいました。

LS: デニスや他のメンバーと話す機会があったら、ぜひともよろしく伝えてちょうだい。あの人たち全員を懐かしく思うわ。実際、デニスやベッキー・タイナーと親しくなったのは、ロブ・タイナーやフレッド・スミスが亡くなった後なの。そのことでもっと近い存在になったのよ。ひんぱんに話をするってわけじゃないけど、精神的に、昔よりも今の方が近しい感情が湧くようになったの。かつて分かち合った経験や愛のせいね。

KS: ロブの死がきっかけで、いろんな昔のコネクションが復活したみたいですね。

LS: 誰が予想したでしょう?彼が死ぬなんて?そんなこと誰も思わなかった。いつの日かまたみんなで集まれたら、って思ってた。その機会ももうなくなってしまった。

KS: では最後に、一番大切な質問をします。ここはバーなんですけど、何を飲みますか?

LS: 何を飲むかですって?難しい質問ね。他の質問の方が答え易かったわ。私が好きなのはドイツ・ワイン、ハイネケン、レッド・ストライプ、バドワイザー、そしてアビータ・ビール(ルイジアナの地ビールなの)。でも私の一番のお気に入りは(ここニューオリンズでは見つからないんだけど)ジャマイカ産のオーバー・プルーフ・ホワイト・ラム、「レイ・エンド・ライト」よ。1口飲めば十分なの。一晩に2口飲んだらそれこそ大変!1壜送ってくれないかしら?

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